海上コンテナの歴史

規格化された箱に不揃いな荷物を詰めて輸送の便宜を図るというアイデア自体は

18世紀末の運河時代にまでさかのぼる。

しかしコンテナが重要となったのは、

世界的にコンテナおよびコンテナ荷役機械が標準化された

20世紀半ば以降である。

コンテナ化は貨物の荷役作業はもとより、物流全般、港湾・倉庫・船舶・鉄道、

果ては航空の設計や仕組みまで大きく変えた、

20世紀の物流革命の最も重要な要素であった。

前史

1830年代には欧米のいくつかの地域の鉄道会社が貨物列車用に、

荷車や船にも積み替えできる木製の小さなコンテナを運用していた。

こうしたコンテナは、もとは1780年代末にイギリスの

ブリッジウォーター運河をはじめとする各地の運河会社が

艀に石炭を詰めるために開発したものであった。

1840年代には鉄製のコンテナも登場し、

1900年代初頭には鉄道から貨物自動車に載せ換えられる

密閉されたコンテナも登場した。

1920年代には、イギリスの鉄道会社間の運賃決裁などを行う

鉄道運賃交換所(Railway Clearing House)が各社まちまちのサイズの

コンテナ標準化を行い、「RCHコンテナ」が誕生した。

これは5フィートまたは10フィートの長さで、積み置きはできなかった。

非常な成功を収めたものの、イギリスだけでの標準にとどまった。

アメリカのみならず西側諸国やソ連などでも第二次世界大戦後、

各国独自の規格の鉄道コンテナが普及していった。

アメリカでも1920年代に、鉄道・自動車・船の間での積み替え作業を

省略するため、さまざまなインターモーダル輸送が試みられた。

1926年から1947年にかけ、

シカゴのシカゴ・ノースショア・アンド・ミルウォーキー鉄道は

長物車に船社所有の貨物自動車を載せるサービスを始め、

1929年初頭には船会社シートレイン・ラインズ社(Seatrain Lines)が

ニューヨーク・キューバ間で貨物列車輸送を始めた。

1930年代半ばにはシカゴ・グレートウェスタン鉄道が

長物車に貨物自動車を載せるピギーバック輸送を開始し、

各鉄道会社が1950年代までにこのサービスに加わった。

戦争とそれにともなう兵站輸送の増大もコンテナの登場を後押しした。

第二次世界大戦の後期に、アメリカ陸軍は輸送船への積み下ろし時間を

可能な限り短縮するためコンテナの使用を開始した。

このコンテナは「トランスポーター」(transporter)と呼称された。

「トランスポーター」は再使用可能な鉄の箱で、

寸法は長さ8.5フィート(2.6m)、幅6.25フィート(1.91m)、

高さ6.83フィート(2.08m)、9,000ポンドの貨物が詰められた。

当初は士官用の日用品輸送が中心だったが、

朝鮮戦争で機密物資の荷役能力や効率性が評価され用途が広がった。

釜山港での沖仲仕による作業時間の長さ、木箱に入れた貨物が窃盗されたり

荷役時にダメージを受けたりしやすいことも、

軍に鉄製コンテナの必要性を痛感させた。

1952年には、修理用器具や部品などコンテナで急送する貨物を意味する

「CONEX」(Container Express の略)と呼ばれる便が登場した。

最初のCONEX貨物の輸送は、ジョージア州コロンバスのデポで

コンテナに詰められサンフランシスコへ鉄道輸送され、

横浜経由で韓国に上陸するという経路をとった。

これにより荷役の手間は省かれ、輸送時間は従来の半分に短縮された。

ベトナム戦争では物資の大半がCONEXで輸送された。

国防総省は8フィート×8フィート×10フィートの軍用コンテナを標準化し、

一般用にも普及した。

1951年、デンマークで、コンテナを輸送する目的で建造された

最初の貨物船が運用された。

同年、シアトル・アラスカ州間でも貨物船によるコンテナ輸送が始まった。

コンテナ専用に建造された貨物船「クリフォード・J・ロジャース」を使用した、

世界初の海陸一貫コンテナ輸送システムは、1955年にモントリオールで、

ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート社(アラスカ太平洋側から

ユーコン準州を結ぶ鉄道)により構築されている。

1955年11月26日、600個のコンテナを載せたクリフォード・J・ロジャース号は

ノースバンクーバーから出港し太平洋を北上してアラスカ州東南部の

スキャグウェイ港へ着き、ここでコンテナ専用貨車に積み替えられ

国境を越えてユーコン準州へと北上した。

ユーコン準州からの貨物は、現地の荷主がコンテナに詰め、

鉄道・船・トラックを経由して一度もコンテナを開けられることなく

受取人のもとへ届いた。

構想

今日につながる船舶用コンテナの発明者は、全米有数の陸運業者を

裸一貫から創業したマルコム・マクリーンといわれ、

1956年にアメリカ最初のコンテナ専用貨物船「Ideal-X」を就航させている。

そのアイデアは1930年代、彼がニュージャージーのトラック運転手だった時代にまで

さかのぼるが、実現したのは彼が船会社「シーランド (Sea-Land)」

(現・マースクライン、Maersk Line)を設立した1950年代だった。

かつては貨物船の荷役は、いくらかのクレーンを補助的に使うほかは、

基本的に陸仲仕や沖仲仕といわれる港湾労働者たちが大勢で人手で行っていた。

彼らは岸壁に停泊した本船に数日がかりで荷物の積み下ろしを行っていた。

港の沖では、無数の本船が岸壁の順番待ちをしており無駄な時間をすごしていた。

こうした港湾での待ち時間は、世界的な船のスケジュールや、

陸上輸送・工場生産のスケジュールをも狂わせていた。

はしけにより沖仲仕が海上で荷役作業をすることがあったが、

風が強く海が荒れている場合などは大変危険な作業であった。

また倉庫や船舶から貨物の一部が抜き取られる「荷抜き」も頻繁に発生していた。

ロンドンのドックランズなどの倉庫・埠頭街や保税地区は高い塀で

周りを囲まれていたが、内部の作業員による盗難は収まらなかった。

陸上での、トラックから倉庫や船への積み下ろし作業も、

手間と時間がかかるものだった。

個人トラック業者だったマクリーンは、積んできたトラックの荷物が

船に積まれていくのを岸壁でじっと待つ間、

トラックから荷物を降ろしてまた本船の船倉に並べなおすよりは、

いっそのことトラックごと船に積んでしまえば楽になるはずだと考えていた。

実用化

マクリーンが陸運会社を大きくした1950年代、

彼はかねてからのアイデアを実現に移すべく中古の貨物船を購入して改造し、

トレーラーをそのまま船倉に乗り入れさせて積み込む貨物船(RO-RO船)を実現した。

だがこれはトレーラーの車輪や運転席の分だけ無駄なスペースが必要で、

もっと効率的に詰め込むため、彼はトレーラーの運転席・車台部分と

荷物の入った部分を分離させ、荷物の入った箱型の部分を規格化して

「コンテナ」にし、一方船側の船倉全体に規格化されたコンテナを

積み木のように積み固定するためのガイドレールを縦横に設けた

「コンテナ船」を発明した。

このコンテナを運ぶクレーンは当面は船にも設置したものの、

基本的に船には余計なクレーンは設置せずに、港の岸壁に

コンテナ積み下ろし用の「ガントリークレーン」を設置して、

将来はこれを世界中の港に整備すべきだとした。

マクリーンは自らの陸運会社を売って船会社を買収し、

中古軍用タンカーを買ってコンテナ船「Ideal-X」に改造し、

1956年、ニュージャージー州ニューアークからテキサス州

ヒューストンまでを58個の金属製コンテナを積んで運航した。

世界標準化

海上輸送のコンテナ化により、船に積んだコンテナを

別の港で規格化された車台を持つトレーラーにおろして

そのまま客先まで運ぶという、海陸一貫輸送が実現した。

マクリーンはこれらのコンテナ船を持つ会社を

海陸一貫の理想をこめて「シーランド」と名づけ、

アメリカ国内航路だけでなく外国航路にも乗り出した。

アメリカ合衆国の同業者やヨーロッパ、日本の船会社も追随し、

ベトナム戦争の兵站輸送を始め海上貨物輸送の多くがコンテナを採用した。

1960年代後半には世界各地の主要港で、従来型の荷役作業を行なう港湾労働者の

「コンテナ化反対運動」のさなか、コンテナ専用埠頭が次々完成した。

この時代、日本の神戸港がコンテナ取扱個数世界一を誇っていた。

海上輸送用コンテナの規格は、アメリカのトレーラーや鉄道で使われていた

コンテナが元になった。

当初はシーランド社の用いていた35フィートコンテナ(アメリカの

セミトレーラー車の当時の最大規格)、およびマトソン社の

24フィートコンテナ(同じくフルトレーラー車の最大規格)の

2種類が主流だったが、国際海運業界の採用を前に1963年に

ISOが規格を統一し、長さ40ft高さ8ft(1A型)と長さ20ft高さ8ft(1C型)などの

4種類とされた。

コンテナ自身は耐久性があって何年も使用が可能であり、

中身の貨物は運送中も確実に保持・保護され、積み重ね可能で、

野積みの状態で倉庫代わりにもなり、荷抜きの問題は大幅に解消された。

世界中の航路を2,000 TEU級の大型コンテナ船や1万 TEUを超える

超大型コンテナ船が往来し、ガントリー・クレーンを使い

わずか1日や半日で貨物の積み下ろしを終えて次の港へ向かうという、

定時性が高く早いコンテナ時代が到来し、世界の貿易や物流のありようが、

わずか十数年で根底からがらりと変わってしまった。

こうしてコンテナ船に対応できない従来型の埠頭や倉庫は急速に寂れていった。

さらなる拡大

1980年代末には、国際貨物が急増する日本やアジア⇔北米間の海上輸送に

対応するため、4,000 TEU級の巨大船が建造された。

これらの船は狭いパナマ運河を通れないため、大西洋側には行かないかわり、

オークランドやロングビーチなど太平洋側の港で船から貨物列車の台車(コンテナ車)に

直接コンテナをおろし、大陸横断鉄道で全米へ輸送することになった。

コンテナを一度に大量に運ぶ船の導入により、

効率化と運賃競争激化への対応をめざしたものである。

また、鉄道で西海岸から東海岸に運送したほうが、

すべて船で運ぶより到着時間が早いメリットもあった。

さらに、9.6フィート高のコンテナや、45フィート長の大型コンテナも登場する。

コンテナ船は商用のみならず軍需物資輸送にも使用され、湾岸戦争では

多国籍軍の食糧・兵器輸送のために82,000 TEU以上がペルシア湾に運ばれたが、

混載された貨物の複雑きわまる行き先管理は当時の情報システムの限界に達し、

その後の物流の大きな課題となった。

2000年代前後より、中国の「世界の工場化」にともない輸送量がさらに増える一方、

運賃競争も激しさを増してコンテナ船会社同士の国境を越えた合併が相次いだ。

船自体も8,000 TEU、9,000 TEU、14,500 TEUという全長300mを超える超大型船が

運航されるようになった。

これにあわせ、世界中の港ではガントリー・クレーンの大型化や水深15m級岸壁の

整備など、設備の大型化工事に追われている。

今日では一年間の船舶輸送のうち、90%以上がコンテナ化され、

年2億個以上のコンテナが輸送されている。

ISOによるコンテナ標準化で、陸運会社や鉄道会社は、ISO標準コンテナに

合わせた大きさのトレーラーや貨車の車台への置き換えが迫られた。

また、多種の異なった大きさだった貨物用パレットも、

ISO標準コンテナに合うサイズに標準化されてきており、

独自のパレット規格にこだわってきた日本の各業者も標準化が急務となっている。